まぁ、ご覧のごとく情報何も無し(汗)。何を書いて良いやら分からぬまま、そしてろくな画像も無いのに、よう公開したもんだ。普通だったら公開することもなく、仮に公開していたとしても、その他のページがそれなり増えてきたんだから削除しちゃうもんだろうけど、なんか捨てちゃうには忍びない。ウェッブ制作の解説本と首っ引きで作った、中身はちゃちでも自分としては貴重なページなのです。
それでもこれじゃぁあんまりだろうと、いつかは追記を加えよと思いつつ、こんなに月日が経ってしまったのだった(汗)。

さて。さすがに13年昔のことを思い出すってのは、難しいもんですね。だいたいからして何時間のフライトだったかも覚えていない。ググってみたら成田からは約8時間半だそうな。
その当時、私はその前に行ったハワイ旅行の時差に懲りて「飛行機は4時間以上のフライトは乗らない!」なんて言っていた。4時間半もオーバーしてるのにかの地に飛び立ったってのは、愚息たちとの最後の旅行になると考えていたからだと思う。しかし、当地に到着して時差ボケした記憶は無い。
これまた調べてみれば、時差は2時間程度のようだ。そういえば到着したその日、初日に宿泊したヌバタ・ホテルに向かい、まだチェックイン出来ないからってことで、ホテル前の海辺で愚息たちと遊んでいたとき無性に眠かったのを思い出した。そうそう! また一つ思い出した! その時、愚息2号が「喉が渇いた」というので、社会勉強を兼ねてそばのお店に独りで買いに行かせた。で、私は私の分のビールも買ってくるように言ってお金を渡した。ちょっと不安げな顔をしつつも2号はお店に向かった。その後ろ姿を見ていたら、お店のおばちゃんが2号と何やらやけに話し込んでる。
しばらくして半べそかきながら2号が戻ってきた。「なんだやっぱり言葉が通じなかったか」と(中学生じゃ当たり前だ)、2号を引き連れて再びお店に向かった。すると、今度は私が叱られた。全てを聞き取れず、しかも意味も半分ほどしか理解できなかったけれど、どうやらニューカレドニアは子供の飲酒はもちろん、子供が酒を購入することも法律で禁止されてるし、子供に購入させようとした親も罰せられるとのこと。お店のおばちゃんが通報してたら私はニューカレドニア到着早々、逮捕されてたところだった(汗)。

このヌバタ・ホテルの前を機関車風の乗り物が走っていて、確か一律料金だったと記憶するけど町中を巡回していた。
早朝に到着してるので、町中を散策する時間はあったはずなのに、散策した記憶は無い。何してたんだろ? 近所には公園もあって、当時はその公園でニューカレドニアの名物鳥・カグーにも会えると記憶してるのだけど、それも見ていない。
もしかしたら夜間フライトを眠れず、そのままホテルで撃沈・お休みしてしまったのかもしれない。記憶が飛んでる
f(^_^;)

何度かブログの方にも書いてるのだけど、私はこのニューカレドニア行でウベア島に渡ったときの感動を今でも忘れられない。ローカル飛行場のマジェンタ空港から数十分。ウベアに着き、迎えの車で小高い丘を越えた瞬間に見えた海の色は、まさに『天国にいちばん近い島』そのものだった。ちなみにご存知の方もいらっしゃるとは思うが、この島は森村桂の旅行記『天国にいちばん近い島』に書かれている島だ。
まさに息をのむような景色が広がっていたのだ。砂浜にはおびただしい数の貝殻やサンゴが打ち上げられていて(その数日前まで嵐が来ていたらしい)、しかも浜辺を歩いているのは私たちだけだった。何処までも続く浜辺に、我が家族の姿以外何もないのだ。

私たちはヌメアで2泊、イルデパンでも確か2泊したのだけど、私はこのウベアで宿泊したかった。しかし、当時のウベアには正規の宿泊施設は無く、交渉すれば一軒だけある小さな食堂がその2階に泊めてくれるだけだった。でも、私たちが行った時点ですでにホテルの建設予定話があると聞いていたし、イルデパンではすでに新しいホテルが建設中だったから、今ではかなりの数のホテルが建ってるんだと思う(いま、チロッと調べたら2軒あるみたいだ)。
そういえばこのウベアを案内してくれた女性。何という名前だったか? 貝拾いが上手で彼女と同じところを歩いているのに彼女は綺麗な貝殻を見つけるのに私たちは見つけられなかった。
その彼女、貝拾い以外にもパレオの巻き方をいっぱい知っていた。パレオってご存知か? 女性が腰や身体に巻いて着用する大きな風呂敷みたいなやつです。男の私にとってはパレオの巻き方教えられても、な〜んも役に立たんのですが、確かに女性が海辺で着けてるパレオって素敵だと思う。

この当時、イルデパンでは当時はホテルは1軒しかなった。ホテル・クブニー。コテージタイプの使いかってのいいホテルだったけど、従業員の動作の遅いこと遅いこと。食事時にビールやコーラ頼むと出てくるのに30分はかかった。食事、終わってまうがな。それでも私はこのホテルに満足していたけど、今ではメリディアンも進出してるらしい。
このイルデパンでどうしても行きたかったのがピッシンヌ・ナチュレ。私はフランス語はジュテームしか分からないけど、これは天然プールって意味らしい。確かに大きな潮溜まりなのだ。そこに大小色々な種類の魚が群れている。当時、ここに行くまで結構な距離を歩かねばならず、しかも周囲は自然そのままだから蚊が多くてまいった。でも、そこはまるで水族館の中でシュノーケリングをするようで、とても楽しかった。お弁当は大きなフランスパンを半分に切って中に野菜やローストビーフが挟んであるサンドイッチだった。わたし、パンは苦手なんだよね(>_<);
そうそう! また一つ思い出した。このピッシング・ナチュレでシュノーケリングしてる時、私は足首を何者かに襲われたのだった。泳いでいたら激痛が走り、その後も何かが襲って来たので心臓バクバクもんで必死に泳いだ。海から出てみたら足首の所2カ所から血がポタポタ流れ落ちている。今になって思うに、あれはゴマモンガラのアタックだったのではないかと思うのだ。その時、○カチョ○カメラで写した写真に、そいつがしっかり写ってるもん(ページ右下、頭を下にしてエサを探してるサカナがそれ)。

イルデパンから再び本島・ヌメアに戻り、私たちは始めて水上コテージに投宿した。なにせ始めてのもんだから、そりゃ大騒ぎ。部屋に入るとテーブルの上にはフルーツ・バスケットは用意してあるは、CDプレーヤーはあるは(当時は非常に珍しかった)、テーブルの下がガラス張りになっていて海中を泳ぐサカナは見える。ジャグジーは付いてるし、テラスからそのまま海に出られて、そのテラスにはシャワーもある! こんな贅沢、これが最初で最後だろうとその時ははしゃぎまくった(その後、水上コテージは母屋に行くのが大変と分かり、チャンスがあっても二度と利用していない)。
たまたま持参していたカセット・テープにボサノバがあったから、(隣の部屋とは離れてるので)大音量でガンガン流してたら、ビーチの日光浴客が集まって来ちゃって「Good!」なんて言いながら聴いてるからテープ止めるに止められなくなってしまったのだった。
この水上コテージのあるホテルはクエンド・ビーチ・リゾート。このホテルに隣接するビーチは当時、ニューカレドニアでも数少ないヌーディスト・ビーチだった。コテージに荷物を置いて、ひととき大騒ぎした私は、いそいそと海岸探索に出たのだった。
始めて目にするヌーディスト・ビーチは、なんか太陽がサンサンと降り注ぐ混浴露天風呂を彷彿とさせた。だから、初めのうちは「オォォッ!」ってな感じで(さすがに声は出してませんが)感動ものだったけど、マグロ2〜3体も眺めれば飽きてしまうのだった。だいたいからして鑑賞に値する裸体は少なかった。結局、私は30分ほどの鑑賞会ののち、部屋に戻って部屋から釣りをした。ビーチの散策より釣りの方が楽しかった。

フランス人はプライドが高く英語を理解できてもフランス語でしか話さない、とういのは嘘だとこのニューカレドニア行で知った。町中のマーケットにも行ったけど、一生懸命英語でコミュニケーション取ろうと頑張ったのにフランス語しか話してくれない人は確かにいた。でもそれはきっと、フランス語しか話さない、ではなくてフランス語しか“話せない”のだと思った。

さて、本日はここまで。また気が向いたら、もしくは何か思い出したら追記することにします。

帰国後、数年たってからウェッブ制作がちょこっと理解できてきて、上手くもないけどそれなりにページが作れるようになった。「ならば!」ということで、このニューカレドニア記もアップしようと意気込んだ。
意気込んだまでは良かったけれど、ウェッブ技術も未熟だし(未だに)、画像素材は全てサービス版の紙焼き。安物のスキャナーで画像を取り込み、なんとかかんとか作り上げたのが右のページ。恥ずかしいけど既に公開しちゃってるんだから残しておきます。右画像をクリックすると、そのみっともないページに飛びます(汗)。
1998年3月。愚息2号の進学も決まり、ホッとしたところで何処に行こうかとあいなった。今ではかなりリーズナブルに行けるようになったニューカレドニアだけど、当時はまだパッケージも少なく、かなり高額な旅行だった。
しかし今後、愚息たちは間違いなく私たち親の元を離れて行くに違いないし、わたし自身も彼らに「早く自立しろ!」と口酸っぱく言ってるのだから、一緒に行動するのもこれが最後かもしれないと清水の舞台から飛び降りたのだった。
これを記してるのは2011年7月。なんでそんな過去のことを今さら書いているかというと、言い訳がちょっと長くなるが、お許し頂きたい。
その当時から私はカメラが好きだったのだけれど、この時は一眼レフは持っていかなかった。いわゆるバ○チ○ン・カメラ持参だった。しかも当時はまだデジタル・カメラは持っていなかった。当然、撮してきた記念の写真は全て紙焼き。しかもサービス版。それに加えて私はウェッブ制作なんて知識は皆無だった。